名前:渕 正信(フチ マサノブ)
生年月日:1954年1月14日
出身地:福岡県北九州市
身長:183cm
体重: 105kg
デビュー:1974年4月22日 対 大仁田厚
得意技:フェイスロック
バックドロップ 各種拷問関節技
タイトル:世界ジュニア アジアタッグ
入場テーマ:
デンジャー・ゾーン/『トップガン』

1974年2月、全日本プロレスに入門。
1989年10月20日からの第10代世界ジュニア王者時代には、14連続防衛の長期政権を確立。
ヘビー級のジャンボ鶴田、ジュニアへビー級の渕正信として一時代を築いた。
2004年の5・22後楽園大会では、天龍と組んでアジアタッグ王座を見事に奪取。
最近はスポークスマン、小説家、テレビ解説者としてリング外でもマルチな活躍を見せる全日本の重鎮だ。
 
 
 
 

旅は続く
2012.04.29

まだまだ旅は続く。

 

 

チャンピオンカーニバルはハードな試合ばかり。怪我人続出。

大変な状況になってきた。選手みんな頑張ってる!

 

 

旅も長旅が多く、疲れもたまっている。注意してても怪我はする。

仕方ない部分が大いにある。

 

 

だけどなぁ…やはりレスラーって仕事も大変。

38年やってる私もそう思う(笑)。



 
今日はまた良い天気
2012.04.15

昨日だけが雨降りだったね。なんと今日はまた良い天気!こんなもん(笑)。

 

 

昨日赤坂で悦ちゃんと町山さんと待ち合わせ。

雨の中、赤坂界隈を散策。坂が多い赤坂。足腰鍛練にはいいか(笑)。

 

 

リキマンション近辺も歩く。今でも立派なマンション。

50年前に建てた力道山の先見の明の凄さに改めて脱帽。

 

 

近くの寺にある江戸時代の伝説の相撲取り雷電為衛門の墓参もする。

よく歩いたので腹が減る。

 

 

赤坂にあるスペイン料理店に入る。自家製ハムとソーセージ、

そしてパエリアをビール、サングリアを飲みながら食べる。

 

 

サングリアが飲み易くてガンガン飲む。料理も旨い。腹もふくれる。

六本木hitomiで店長をやるまでまだ時間がある。赤坂から六本木芋洗い坂までまた歩く。

 

 

3人とも日本酒大好き。居酒屋「あぶらや」で日本酒飲むために入る。

20年来の馴染みの店。親父さんが注文以外にサービス料理を出してくれる。

こっちは腹一杯。酒も出てくる。親父さんの気持ちが嬉しくてまたガンガン飲んでガンガン食べる。

 

 

町山さんと悦ちゃんに大いに世話になる。そのままほろ酔い気分でhitomiに向かう。

町山さんと悦ちゃんも一緒。久々のhitomi
での1日店長。寺崎さん、今野さん、平野さんが来てくれる。

以前中田さんの下でクラブで働いていた松ちゃんも来てくれた。

瑠奈ちゃんと里村さんも来てくれた。いつもながら友とはありがたい。

 

 

久々のhitomiでの1日店長。そして久々の朝帰り。

本日日曜日はソファーに寝そべって幸せ気分でダラケている。

近々打田さんとも飲む。嬉しいねぇ(笑)。



 
世の中何が起きるかわからない
2012.03.01

昨日の雪が嘘のような春の陽射し。

3月になったとたんにこの暖かさ。シリーズも始まる。

 

 

昨日は会見を行った。開幕戦は井上雅央と組むこととなる。

20日までのシリーズ。体調管理が大切だな。もうそれなりの年齢だから(笑)。

 

 

昨夜は伊東さん、伊藤さん、寺崎さんと呑んだ。代々木で。

店の名前はなんと「頑固おやじ」(笑)。

 

 

日本酒をたっぷり呑んだ。酔夢ナイトの飲み会なのにこの3人に世話になった。

相変わらずの甘えん坊ぶり。

 

 

このオフは何かといろいろあって実は少々体調を崩していたがおかげで元気もりもり(古い形容?)となった。

友人って本当有難いなぁ。

 

 

それにしても話は変わるが、ここんとこ特に地震が多いねぇ。

首都圏直下地震が近々来ると情報があるが、本当怖いよな。

1年前、地震が来るって言っても遠い先のことだと考えていた。

 

 

しかし、東日本大震災以後、いつ起きてもいい状況だ。

大変な時代になった…。

 

世の中何が起きるかわからない。











 

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日本プロレス界の大恩人
2012.02.01

昨夜キャピタル東急ホテルで「馬場さんを偲ぶ会」が催された。

1月31日は馬場さんの命日。昨年は13回忌であった。

 

 

今年は丸々13年。馬場さんが逝って13年たつ。時が過ぎても馬場さんの思い出は変わらない。昨年の13回忌に比べ規模は縮小されても館内は満席となった。

 

 

参列された人それぞれ馬場さんに対する想いがある。思い出がある。元子さんと久しぶりにお会いした。元気そうでなにより。ひと安心である。京平ちゃんにも。
 

 

昭和の時代。戦後の復興にプロレスは重要な役目を果たしたことは間違いない。力道山がシャープ兄弟を空手チョップでなぎ倒す映像は今だ復興のシンボルとして繰り返し流されている。プロレスは日本国民に勇気と感動を与えた偉大なものであったのだ。

 

 

それを中継したテレビが当時高い値にかかわらず驚異的に国民に普及された。プロレスとテレビの相互作用だ。常にナンバーワンの視聴率を誇っていたプロレス中継が危機的状況になる。英雄力道山の死である。「力道山がいなくなったんじゃプロレスは終わりだ」ほとんどの人達がそう思った。

 

 

プロレスイコール力道山であった。豊登、吉村道明では日本プロレスは存続出来ない。アメリカマット界で大成功しているジャイアント馬場を日本に呼び戻すことしか危機的状況を回避する道はない。

 

 

実際、当時馬場さんは景気の良かったアメリカマット界に於いてどこのテリトリーに行っても立派なメインエベンターの位置付けであった。日本人レスラー最高の成功者であり、力道山がいなくなった日本プロレスにわざわざ戻ることもなかった。

 

 

馬場さんはアメリカマット界の別格のトップとしてあるいはチャンピオンとして今後最低10年は年億単位のファイトマネーが保証されたという。後年のアンドレと同じ待遇になったはず。いや1時間試合ができるスタミナを考えればアンドレ以上か。

 

 

馬場さんは…日本プロレスマット界に戻る道を選択した。ジャイアント馬場のスケールの大きいプロレスは力道山時代と変わらないプロレス人気を日本全国に呼び戻すことになった。

 

 

力道山時代以上の大型強豪のアメリカンレスラーがジャイアント馬場との試合ため大挙来日した。馬場対トップアメリカンレスラーとの試合は迫力満点の好試合となり、日本全国どこの会場でも満員となった。

 

 

テレビのプロレス中継はやはりナンバーワンの視聴率を維持した。ジャイアント馬場のおかげでプロレス人気は復活した。もし、あの時、馬場さんが日本に帰らずにアメリカマットを選んでいたら…日本のプロレスはどうなっていたろう?私はプロレスラーになっていただろうか?

 

 

日本にプロレスが存続しても別のもの…そう現在のような多団体時代が早い時期に来ていたかも?そしてテレビ中継は早々に終わっていたかも?そうなるとプロレスは一体…本当に存続できただろうか?馬場さんは我々の…というか日本プロレス界の大恩人である。



 
馬場さんの思い出話
2012.01.31

本日は馬場さんの命日。

 


馬場さんの思い出話をまたしようと思う。馬場さんは長くプロレス会社の社長業をしていた。その馬場さんが長いプロレス人生で一番楽しかった時期っていつ頃だったのか?

 

 

本人に聞いたことがある。それによると昭和40年から43年頃だと。日本プロレス協会のトップエースとしてリング上でのファイトに専念できた時期だそうだ。当時はスポーツ新聞の一面にはいつもプロレスの記事、馬場さんの名前が載っていた。

 

 

私が中学生の頃だ。これは本当のことである。私自身よく覚えている。テレビ番組の各ジャンルの視聴率も30%超えのトップであった時代だ。馬場さんも当時は20代から30代にかけて一番強く元気だった時期。

 

 

アメリカマット界も元気だった。あの当時最高のトップレスラーが打倒ジャイアント馬場を目指して来日したもんである。ジンキニスキー、ブルーノサンマルチノ、フリッツフォンエリック、ボボブラジル、ザデストロイヤー…。ほぼこの4年間に集中して馬場さんとのタイトルマッチのため日本にやって来た。

 

 

その戦いに我々ファンは熱狂した。北九州に住む私のところでは当時プロレスのテレビ中継はなく私はスポーツ新聞で結果を知るしかなかったが、いつも超満員の会場であったことは覚えている。馬場さん自身良き時代だった当時はプロレス人気は力道山時代と変わらなかったんだね。

 

 

日本プロレス協会は長く日本テレビの独占中継だったが、翌年44年猪木さんの台頭もあってテレビ朝日(当時NET)がプロレス中継に参入してくる。日本テレビの独占がなくなった。馬場さんはやはり日本テレビとの関係を大事に考えてたんだろうな…。

 

 

だから43年迄がレスラーとして良き時代だったと思ったかもしれない。馬場さんはそこまでは言わなかったけど…。

 

 

そういえば奥さんの元子さんと本格的にお付き合いし始めたのが昭和40年頃だと何かの本に書いてあったが、そうなると当時は公私とも充実期だったんだね(笑)。

 

 

社長業としては1990年代初頭の四天王時代が一番良かったってことは言ってたな。

 

 

それは私にとっても良き時代だった(笑)。



 
嗚呼懐かしの70年代
2012.01.29

イッツコムのケーブルテレビの昔の映画などを見ると時たま1970年代の東京の街並みが出てくる。二十歳を過ぎたばかりの若造の頃、よく新宿や渋谷あたりをぶらついたもんだ。

 

 

70年代当時のその街並みが画面に映し出されると本当懐かしい。まことに我が青春時代だった。新宿コマ劇場そばの喫茶店マジソンで待ち合わせしてミラノ座あたりで映画を見たもんである。マジソンもコマ劇場もすでにない。

 

 

渋谷は代官山に向かう坂の途中の古くて小さな焼き鳥屋によく行った。その後は駅そばの2階にあったスナックで酒を飲んだ。そこで飲むのは決まってサントリーオールド。通称「だるま」だった。店長の亀さんは元気だろうか?もう25年ほども会っていない。

 

 

私よりかなり年上だった。お互い年をとってしまった。

女性客も結構グループで来てたから今でいう合コンなんてしょっちゅうだった。

いろいろ若気の至りの思い出もある(笑)。

 

 

嗚呼懐かしの70年代。むろん携帯もパソコンもない時代。

今と同じく金もない時代。ただ若さはあった。未来があった。夢もあった。

 

 

今!?今だってそりゃ…それなりに夢があるさ(笑)。

58歳は58歳なりにね。ただ時間がなあ…。

 

 

今後10年20年なんて、それこそ「あっ!」という間に過ぎていくんだろうなぁ。

70年代、あのジャンボ鶴田さんも若かった。お互い若者特有の助平だった(笑)。

あの頃2人で取り合った何人かの美女も今では50代のいいおばちゃんだな(笑)。

 

 

どうしているんだろ?…ともかく、あの頃我々がはしゃぎ回り飲んだりディスコで踊ったりしてた当時の街並みが映像で見れることいいことだ。

思い出は誰にも邪魔されない。



 
貫禄あったなぁ
2012.01.28

1月31日。馬場さんの命日がまたやってくる。昨年13回忌だった。

何度も書いたことだが1年なんて本当早い。また13年も早く過ぎた。

 

 

馬場さんは1月23日が誕生日、61歳になったばかりで亡くなった。

私は今58歳。馬場さんが亡くなった年齢に近づいてきた。

 

 

私が初めて馬場さんと会った時、私はまだ19歳。馬場さんは35歳。

こんな言い方をしてどうかと思うが、馬場さんはその年齢以上に老成というか貫禄があった。

 

 

自分が35歳だった頃を思い返して見てもまた今の30代の奴らを見てもそう思う。

本当貫禄あったなぁ。一国の長…城主って感じ。

 

 

やっぱり違ったなぁ。それに比べ、58歳となったこの私…貫禄のカケラも全くない。

「甘えん坊おじさん」を自認してるうちは駄目だな(笑)。

 

 

葉巻をくわえて足を組んで天井を見上げてる馬場さんのよく見かけた姿。

側に寄って話かけれるまでかなりの年数がかかった。

 

 

それまではただ「お疲れ様でございます」とシドロモドロに頭を下げて挨拶するだけだった。



 
幸せなおじさんだな
2012.01.24

やはり雪が降りましたな。寒い訳だ。

 

 

昨夜は部屋にて雪見酒としゃれこんだ。表には出ない。

腰痛持ちなのに滑って転んだんじゃそれこそシャレにならない。

 

 

今日も天気は良いが道路はまだ昨夜の雪のせいで凍結してるようだ。

本日も外出なしかな?整骨院にも行かない。

 

 

先日の我が誕生会でプレゼントとして日本酒ワイン焼酎と来客の皆さんからたっぷり頂いた。

有難いことにひとり酒に事欠かない。嬉しいねえ(笑)。

 

 

今夜も出歩かず部屋で酒飲んで映画でも見るかな。

年と腰を考え今夜も養生といくか?

 

 

昨夜は日本酒の熱燗、今夜は…今夜も熱燗といくか。

この寒い時節だから(笑)。早起きして滑らないように注意して出勤する勤労の皆様方…。

 

 

それに比べ、金がないとか腰が痛いとか年とってるとか愚痴ってる場合じゃないだろ(笑)。

ずっと部屋に居て自炊して酒飲んで映画見てソファーに寝転がって、また酒飲んで…。

まったく贅沢なおじさんだ、私は。

 

 

明日は打田さんと飲む予定。久しぶりに六本木で飲むかな?

猪瀬さんとも近々飲む予定。金はなくとも友がいるか…。

 

 

やはり幸せなおじさんだな、私は(笑)。



 
レンズが割れた・・・
2012.01.09

どうやら昨夜の真田との激闘で左目のレンズが割れたようだ。

 

 

私は6年ほど前に白内障で左目の手術をした。

レンズを入れる時に「試合の時は気をつけてください」と言われていたんだが…

いざリングに上がるとねぇ…。

 

 

 

どうも帰りの新幹線の中で目がイガイガしてると思った。

 

 

本日は祭日。

明日は速攻眼科に直行だ。



 
今となったら懐かしい
2012.01.04

正月三が日が早くも過ぎた。

 

 

年々我が年齢と共に年末も正月も淡々と過ぎてゆく。若い頃に比べ、この時期特有のときめき感が薄らいでいく事は仕方ないのであろうか。

 

 

子供時分のクリスマス、お正月は本当に大きなものだった。

我々の子供時分、町内会子供会が盛んでよく様々な行事の時はそれ相応の催しがあった。それが子供ながら楽しみだった。杵と臼を用意して餅つき大会。歌留多、凧揚げ…。

 

 

ゲームソフトのない時代。むろん、パソコン、携帯、コンビニのない時代。正月はどこもかしこも休みなので暮れに両親は買いだめをしてたもんだ。

 

 

正月はほとんど餅ばかり食べてた記憶がある(笑)。お雑煮、焼き餅…。焼き餅は砂糖醤油でよく食べてた。

御節料理は今のデパ地下で売ってるような豪華な催しもんじゃなかったよね。

 

 

私が子供時分は父親が勤めていた製鉄所の社宅アパートに家族4人で住んでいた。

共同便所、共同炊事場、共同洗面所のアパートにである。別に不便とも感じずに8年間、幼稚園児から小学6年生まで住んでいた。

 

 

まだその頃は今のように小便が近くなかった(笑)。部屋は六畳と九畳の和室。丸い卓袱台と火鉢を置いてあった。テレビ、冷蔵庫、洗濯機、掃除機の順に家電品が徐々に揃っていったのを覚えている。

 

 

風呂は街の銭湯。両親と妹と手を繋いで行ったもんである。たまに小学校の同級生の好きだった女の子と銭湯の玄関で会うと変にときめきを感じたもんだ(笑)。家族で銭湯に行くのが楽しみだった。

 

 

本当にあの頃は今から考えれば不便だらけの生活形態だが、それが当たり前の時代だったから別に不便とも不自由とも感じなかったな。銭湯の帰りはすでに夜道。両親と妹と共に童謡を口ずさみながらの帰り道が今となったら懐かしい。



 

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